Asian Dub Foundation をご存知だろうか。ウィキペディアのリンクを張ったのでどんなアーティストグループか参照してもらえるだろうが、この中のオリジナルメンバー、Lord Kimo はSound Cloud での突然の出会いにより、コラボ作品をつくることになった。このことは、自分の人生の中でも最大級に奇跡な日だったと思う。

なんでかって、大学時代に渋谷のTSUTAYAで彼らの音楽を聴いてファンになり、そして2000年だったかな、その年のフジロックのヘッドライナーとしても出ていた彼らを見ていたからだ。このバンド以上にアジア人グループでかっこいいバンドはないと思っていた。

ウィキペディアでも若干あやしい情報が入っているので、実際に自分が本人から直接聞いた本当の話をここに書いてみる。Asian Dub Foundation はフジロックの数ある外国ゲストの中で、唯一専属契約をしているバンドだったそうだ。そのため、過去6回もフジロックに出場していた彼だが、その中の実情はいろいろと大変だったようだった。ヘッドライナーとして、フジロックでも特別の地位を確立していたバンドといえる。

Asian Dub Foundation の何がかっこいいって、CD聞いたらわかるよって言いたいけど、彼らのすごいところは、音楽の才能や芸術性ともうひとつ、その作品の中に込められたメッセージ性・思想・哲学だと思う。彼らのアルバムには、おもいきりイギリスの白人至上主義に対抗するような強いメッセージがふんだんにリリックやタイトルに込められている。

彼はイギリスで最年少でこのグループに参加することになったのだが、年齢も自分とさほど変わらないことを考えると、相当に度胸の据わった青春時代だったのだろう。そのころの自分はたしか東京の音楽シーンで自分の道を探ることに精一杯だった。このときは彼と自分の間には相当な身分の差があり、声もかけることすらできず、その場で会っていたとしたら、確実にちびっていただろう。

そんな彼は、グループ内のリーダー核、Dr Das に誘われて、イギリスの白人主義的社会から排他的に扱われてウップンを溜め込んでる、ようは人種差別を受けている若者たちを集めて、音楽を通じて彼らに音楽を教え、メッセージを伝えるすべを教育されたのだそうだ。実際に教育機関として、 Asian Dub Foundation Education という名前だったそう。まだ10代でそのグループに入れたLord は強運の持ち主であっただろうし、実際レコーディングスタジオで一緒に制作活動していたら、ケタ違いの才能を発揮され、驚くばかりだ。

そして、彼らの思想・哲学的観点から、人種差別運動へと形を変え、それは音楽を通じて世界の若者の連帯を産み、イギリスという国さえもビビらせてしまう結果となった。イギリス国王から憲章を授与するよというお話しがあったそうだが、世界的白人至上主義・人種差別の起源として彼らの目に移った国王からの憲章はもはや何の価値のないものと移り、蹴ったということだった。

彼らのアルバムのながにReal Great Britain、まさに、ほんとすげえなイギリスって。というくらいこの国を皮肉っている。また、Enemy of Enemy (敵の敵)といった音楽のタイトルからも、本当の事実、国際社会で行われている国家犯罪とくに、欧米からアジア・中東といった国々に対するおぞましい行為を堂々と音楽の中で伝えている。

また、ウィキペディアにもある通り、当初人種差別の激しいイギリスではアジア人のバンドなど見向きもされなかったようだ。ださいイギリスポップの流行るその雰囲気にうんざりしたに違いない。その後彼らはフランスに渡り、とある人物から世界一のバンドと評されたことから、その後イギリスでも火がつき、やがては世界中でその強いメッセージ性と共に、若者のムーブメントを作り上げた。なんともイギリスという国が滑稽な社会だったかは、ワンマンぶりの近い日本も注意すべきところではないかと思う。

それからというもの、彼らの活動は躍進し、レッドホットチリペッパーズと共に世界の舞台回りを行うまでに成長。もはやアジア最強のロックバンドの地位を確立したといえよう。日本でも、The blue harb やFire Ball といった大物が前座として彼らをサポートしている。日本を含め、アジアで最強のバンドはAsian Dub Foundation であったことは間違いないだろう。そして、彼との出会いがその後、自分の音楽人生そして、世界への大きな扉となって、そして2011年、彼はまさに地球の反対側から火の玉のごとく、自分の前に現れたのだった。

2011年の夏終わり、自分は彼とのレコーディングのために日本に招聘したのだが、あまりにも大きな出来事であったため、音楽フェスを開催することになった。というか、フェスになっていった。それが、サツマ・フェスタである。自分が上海万博のプロデュースの仕事に失敗して、鹿児島の実家で寝込んでいたところ、突然の神からのお告げ?だったのか東京時代のボスに、なんの根拠もなく音楽をつくれといわれた。そのテーマはInoriというテーマだった。

サウンドクラウド上で爆発的に広がったこの作品を、ロードが聴いてくれてメッセージをくれたのだった。実はレコード会社やエージェント、イベント出演オファーなど10000通を超えるメールをこの時に世界中から受け取った。その中でも、一番自分の中で最高のものが彼のメッセージだった。そして一緒に曲をつくることになった。

30代までにとにかく結果を出したくて、いろんなことを考えあぐねていた自分は、世界で勝負するという思いだけが先走り、2010年上海万博に打って出たのだが大コケ。3年もかけたプロジェクトは、尖閣諸島問題という誰も予期できないような事件によってあっさりと白紙になってしまった。その時にはまさに廃人という言葉が自分にぴったりだったと思う。自分はすべての希望を失い、10年いた東京を後にした。鹿児島の実家のクローゼットに引きこもり、夢やぶれ、廃人となった29歳の自分は、もはや生きる意味さえもわからなくなっていた。目の前には仏壇があり、それを見ては、この世に神も仏もないと悟ったような気持ちでそれはやり場のない憎しみに変わっていった。

2ヶ月くらいだろうか、鹿児島の実家に引きこもり、東京のボスから曲をつくれと、なんの根拠もなく言われたことに、これもきっとなんか意味があるのかなと、仏間にキーボードを持ち込んで、曲をつくりはじめたのだった。この際いまの気持ちをそのままこの作品に込めたいと思い、タイトルだけはもうINORIということが決まっていた。つくる前までは、祈ることに意味があるのか、夢は叶わない、などネガティブな気持ちが右往左往しながら、その作品制作に没頭した。

そして、その作品ができたころ、あることに気付いたことがあった。それは自分のこれまでやってきたことはすべて何かほかのことに依存してきたものではないかと。例えば、名誉やお金、地位など、夢を追うためにそれが必要だったのが、結局、そのこと時代が目的になっていた。結局のところ、他力本願。他人の力を利用して上に上ることを考えていたことがすべての間違いのはじまりだったのだろう。自分の力で夢を叶えることを忘れていた。祈りは叶うものでもあると思うが、もっと言えばこの作品に関しては、必ず叶えて見せるという執念という言葉のほうが近いと、その後世界の聞いてくれたリスナーから言われたが、本当にその通りだと思う。

結局のところ、自分は自分の作品で勝負する。TAISEI OKAZAKIという名前で世界に勝負することに、精神的なプレッシャーがあったのだが、すべてを失った自分にとっては逆にそれが、背中を押してくれたのだった。つくった作品INORIは瞬く間にサウンドクラウド上で世界中に広がった。そして、Lord が聞いてくれて、メッセージをくれた。まさに自分の祈りが叶った瞬間だった。自分で叶えたのか、誰かに叶えてもらったのか。それはもうどっちでもよかった。そしてこの作品が生まれた。

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