今回はちょっと青春時代に悩んだことをひとつ。20歳の若い後輩がいろいろと葛藤しているのを見て、自分なりの考えをちょっと書こうと思いました。今悩む青春の若い人たちに役に立つものであればよいですが、一個の参考にしてもらえたらうれしいです。

ほんとはDJで食べていきたいのに、みんな就職活動とかするし、普通に安定した人生を送らないといけないのかなって、悩んでる若手DJっているんじゃないかと思う。これは多分音楽やってたり、文化・芸術活動に関わる人たちなら必ず通る人生の相談のひとつじゃないでしょうか。

そんな自分も東京に行く前は、バンドで成り上がってやると行きこんで上京した。18歳ごろのこと。この頃は可能性に満ちた未来で、何も足かせもなく飛び込めるエネルギーを持っていた。たまたま、先輩方に恵まれてメジャーシーンのトップの人たちとも交流を持てたことはとても感謝。

上京してすぐ、友達伝いで日華という人物に出会った。彼のまわりはやたらと素敵な音楽仲間がいて、こんな素敵な仲間たちと一緒に活動できること自体が自分の東京時代の華やかな青春時代となった。その中には、今でも活躍するDeftech MicroやRIZEをはじめ、AI,BENNIE K, クリスタルケイ他女優の綾瀬はるか市原隼人佐藤隆太 といったアラサー世代のトップバッターを日華さんは広くつながっていて、正直何者なんだろうとその当時は驚いていた。日華さんのつくったオーライオンズという巨大アーティストクルーのおかげだった。曲がりなりにも、その端っこに入り込めたことに感謝。

田舎から出てきた自分はその光景がとても刺激的であったし、Microくんに限っては一時期本当によくしてもらったし、AIちゃんもClub ASIAで一緒になったときは、鹿児島や志布志の話でとても盛り上がった。こんなつながりに縁できたことは奇跡であったし、自分の音楽活動の東京での出だしは最高潮にいいスタートだった。ただし、大学卒業間際には、みんなの期待を裏切って就職したのだった。

そのことは、音楽一本で勝負しようとしているこのグループの士気を大きく下げたと思うし、残念に思われたかもしれない。いろんな気持ちが渦巻いた瞬間でもあった。ただ、自分には親に迷惑をかけることはできない一点で、とりあえず親も安心する就職先につくことを選んだのだった。が、それは音楽活動への挑戦でもあった。仕事をしながら活動を続けるという選択をしたのだった。

自分の人生の師ともいえる人が言っていたことがその決断をさせた。その人は、2頭追ったら2頭とも取れという言葉を残しており、なるほど両方とってしまえばいいわけだと、さとった際には一気にそのための方法を必死で探した。自分は実業家になりたいという夢もあったのだが、音楽家と実業家両方になろうとそのときに決めたのだった。

そのことを決めていざ実行したときの半端ない険しい道だったことは確かであった。当時はやく実業家になるために、大学の縁でお世話になった浜口直太という国際経営コンサルタントのもとで修行できることになり、通常10年でつめるものを3年でつめると聞いていたので、それを選んだ。そして、その会社は最強にしごき好きの会社だった。ほぼ休みなしの労働環境であったため、音楽活動はその当時組んでいた相方に愛想をつかされる始末。このユニットは実はかなりの反響を呼んでいたのだが、マイクロ君もサブエムシーをやってくれたり、三木道三をヒットさせたことで有名な山本Pも大阪から駆けつけてくれたりと、チャンスには広く恵まれたのに。そのときに自分の好きなアーティストグループのひとつであったMondo Grossoの初期メンバーの堀江さんと一緒にライブにも見に来てくれた。こんなにもチャンスが広がっていたのに、解散という結果になり、相方とはお別れしてしまったわけだった。ただ、そのころのエネルギーは音楽作品にしっかり吹き込まれ、その後2010年その作品の権利が自分に移転したので、サウンドクラウド上でリリースしたところ、欧米を中心に反響・オファーを受けた。それがこの作品。

この相方とASSIOというグループを立ち上げ、解散での話し合いのときはグループ名を彼に、作品を自分にということで片が付き、それぞれが別の人生を歩み始めて行った。その後自分は一度もグループをつくろうと思ったことがない。つくったとしても、1曲だけの企画ものばかりのユニットだけしかしないことにした。もうバンドやらユニットやらでめんどくさくなりたくないなと思ったのだった。

ただ最近無性にまたバンドをやりたくなっている。ソロでここまで曲がづくれるようになったので、あとはそれぞれのパートを募集するだけといった感じで一個バンドができたらいいなと思ってる。そのうちいいメンバーとの出会いでまたバンドをはじめることになるかもしれない。

話は飛んでしまったが、ようは音楽家の夢も、実業家の夢も今はある程度叶っているし、そのことが今の日本の音楽産業の一番重要なポジションとなっていることを考えると、大変な道ではあったが、あきらめず乗り越えたときの収穫はでかいと言える。こんな方法もありなのではないでしょうか。

就職した事務所も今でも、交流があり、そこで縁した4000人を超える経営者・投資家のつながりは、自分の将来設計や学び舎として最高の舞台だった。そのうち息子さんが後を継がれるときには恩返しできるように自分もしっかりと実力を積んでおこうと思う。

そして、東京時代に出会った素敵な音楽仲間は、世界に挑戦したり、家族ができたり、それぞれまた違う人生を歩んでいる。この2つの道がパンガンでの一定の成功を収めた基礎であることは間違えないし、そんな簡単なものではないこの2つの道を両方することではっきりとパンガンで何をすべきかを自分の中でしっかりとビジョン化できたのも確かだった。実業家としても、M&A・事業再生・海外進出・投融資・裁判、大切な仕事のほぼすべてのキャリアを34歳までで実現できたことも、とりあえず目標クリアである。

音楽のキャリアも、サウンドクラウドのフォロワーをはじめファンの方々、とくに去年はニュージーランドとオーストラリア、とくにニュージーランドのダニーデンで国際平和祭に招聘いただき、そのオーディエンスのひとりが突然駆けつけてくれた。彼はオタゴ大学のビジネススクールで学ぶ学生でラッパーであった。彼は自分に「君の作品を3年前に聞きました、いまもしっかり覚えてます」といってくれ、こんなところにも応援してくれる人がいるんだと感動した。そのまま彼の家に行き一緒に音楽談話やいろんな話をしたのは本当に素敵な思い出となった。

結論として、両方やるのはとても大変だけど、信念があればやれるはず、それが形になってきたら返ってくるものも2倍以上であるということが自分の今いえることだ。これはあくまでも自分のひとつの意見であり、誰にも適用されるようなやり方ともいえない。もし、こんな悩みがあるなら、こういったやり方もあるとだけ心にとめててもらえたら嬉しい。このMIRAIの中で歌われている未来がいま現実に起こっていることに感謝。

 

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